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高知城パンフレット

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資料テキスト

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国指定重要文化財

高知城 。

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南海の名城 ・ 高知城

やまうちからと 、

高知城は 、 日本で唯一本丸の建築群がすべて現存する 、 江戸時代の姿を今に伝える城郭である 。 もともとこの場所には南北朝時代に築かれた大高坂城があり 、 戦国時代には長宗我部元親が岡豊城より移り築城に取り組 んでいた 。 しかし 、 治水に難儀し 、 わずか3年で元親は浦戸城へ本拠を移した 。 その後 、 関ヶ原の戦の功績で遠州掛川より入国 した山内一豊がこの地を城地と定め 、 慶長6年 ( 1601年 ) 秋から築城をはじめた 。
一豊は築城家として知られた百々越前守安行を総奉行に任じ 、 近隣諸村から石材や木材を取り寄せ工事を進めたが 、 難 工事の末城のほぼ全容が完成したのは10年後 、 二代藩主忠義の治世に移った慶長16年のことであった 。 享保12年 ( 1727 年 ) には一部の建物を残し焼失 。 ただちに復旧にあたったものの財政難もあって天守閣が復興するまでに20年以上の歳月を 要している 。 その後 、 明治維新により廃城となり本丸と追手門を除くすべての建物が取り壊され 、 公園となっていまに至ってい る 。 別名を鷹城 。 雨の多い土佐のこと 、 高知
軍事拠点としての城の性 城において 「 雨仕舞い 」 は
格を伝える貴重な遺構が高 敵からの防御と並び重要
知城には数多く残ってい であった 。 城内には多くの
る 。 水路が設けられ 、 石垣から
城内の各地でカギ状に曲 飛び出した石樋で排水して
がる石垣は 「 横矢掛り 」 とい いた 。 城内で16箇所が確
い 、 死角をなくしてどこからで 認され 、 本丸の石樋はいま
も弓矢を敵に浴びせられる も現役である 。 三ノ丸で発
ようにするための仕掛け 。 掘された水路と石樋は構
塀に開いた丸 、 三角 、 四角 造をいつでも見ることがで
と様々な形を持つ 「 矢狭 きるようになっている 。
間 」 は 、 ここから弓矢で敵を
駆逐するためのもの 。 高知城の石垣は 、 近江の
最後の砦である天守には 技術者集団 ・ 穴太衆 ( あの
「 石落とし 」 と 「 忍び返し 」 の うしゅう ) によるもの 。 雨の多
鉄剣が設けられており 、 これ い土地柄を考慮し 、 崩れに
を突破して天守に取り付く くく排水能力も高い野面積
のは至難の技だ 。 が多く採用されている 。 見 かけは雑にみえるが 、 非常
高知城をめぐる堀のうち 、 現 に頑丈な築き方である 。
在残されている堀は約1 / 3 なお 、 城内では杉ノ段にあ
足らず 。 また 、 堀の幅も現在 る石垣と鉄門にある打込
では半分近くになっている ハギの石垣が特に美しく 、
ほか 、 城のそばにあった土 必見 。
塁も撤去されているなど江 三ノ丸では 、 長宗我部元
戸時代とは大きく様子が変 親がこの地で築城した際
わっている 。 昔は城の北側 の石垣が発掘され 、 見るこ
を流れる江ノロ川から水を とができる 。
引き入れていた 。

城みどころ案

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高知駅

薫的神社
京卍安楽寺

高知駅前

周辺を歩く 高知城の

高知県立大学

高知橋

丸の内高校 高知県 警察本部

城西公園

追手前高校 @ 高知県立文学館
土佐女子高校

蓮池町通

日曜市

高知城追手門

追手前小 13 )

観光案内所 ( 0781

屋町筋商店街

ひろめ市場

はりまや橋店街

中央公園

高知県庁

据結

はりま

高知市役所

デンテッ ターミナル ビル前

高知城前

大橋通

県庁前

上町1丁目

枡形

●高知県立県民文化ホ

●龍馬の生まれたまち記念館

鏡川

第六小

山内神社

0坂本龍馬誕生地碑 / 海援隊隊長 。 薩長定重要文化財 。
め 、 後に自由民権運動の最高指導者として活 同盟の締結や 「 船中八策 」 の起草などを通じ 0大川筋武家屋敷資料館 / 城下で唯一残 躍 。 追手門を入ってすぐに銅像がある 。 大政奉還実現に尽力 。 すぐ近くに 「 龍馬の生 る武家屋敷 。 書院造の主屋と長屋門がある 。 ①後藤象二郎誕生地 / 大政奉還の実現に まれたまち記念館 」 がある 。
①野中兼山邸跡 / 江戸時代初期の家老で むけ活躍 。 明治以降は政治家となる 。 ②寺田寅彦記念館 / 物理学者 、 随筆家とし 、 港湾整備や灌漑 、 森林整備など殖産興業に2日曜市 / 300年続く日本最大の街路市 。 て著名 。 夏目漱石と親交があり 「 吾輩は猫であ 尽力し 、 土佐藩経済の礎を築くも 、 後に失脚 。 ①吉田東洋記念碑 / 幕末に容堂を助け活 る 」 「 三四郎 」 の登場人物のモデルとされる 。 8山内容堂誕生地 / 15代土佐藩主で 、 幕末躍 。 先進的な政策をとるも 、 武市瑞山の命を ③致道館門 / 文久2年 ( 1862 ) に創設され 四賢候の一人として中央政界で活躍 。 公武 受けた土佐勤王党の志士に暗殺された 。 た藩校で 、 その門だけが残っている 。
合体派であったが 、 後に龍馬や後藤象二郎の ①立志社跡 / 明治7年に板垣退助と片岡健 0土佐山内家宝物資料館 / 土佐藩に伝わ意見を受け大政奉還を徳川慶喜に建白 。 吉らにより設立され 、 自由民権運動の中心的 る古文書 、 美術工芸品 、 歴代藩主の遺品など O武市瑞山殉節之地碑 / 土佐勤王党党 役割を果たした 。 を所蔵展示する博物館 。 やまうちようどう
首 。 尊王攘夷運動に奔走し 、 一時は土佐藩 ⑤はりまや橋 / 江戸時代初期の豪商播磨屋 6旧山内家下屋敷長屋 / 山内容堂の別邸 政を事実上牛耳るも 、 後に切腹に処された 。 宗徳と櫃屋道清が両家の往来をするために架 下屋敷の警護に就く武士の宿泊所で 、 国指板垣退助誕生地 / 明治政府で参議を務 橋 。 よさこい節の 「 坊さんかんざし 」 で名高い 。

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19本丸御殿など 本丸には天守閣 ・ 本丸御殿 ・ 納戸蔵 ・ 廊下門 ・ 東多聞 ・ 西多聞 ・ 黒鉄 門などの建造物が残る 。 現存十二城のなかでも 、 本丸御殿を残すのは 高知城のみで 、 いずれも国の重要文化財に指定されている 。 東多聞は 武器庫 、 西多聞は本丸警護の武士の番所 、 納戸蔵は藩の重要書類の 収蔵 、 黒鉄門は儀式の際に藩主が出入りするのに用いられた 。 御殿の書院は正殿 、 溜ノ間 、 玄関からなり 、 正殿には一段高くした上段 ノ間があり 、 西側には武者隠しがある 。 欄間は土佐の荒波を表現したも
のになっている 。 創建当初の御殿は金箔張の裸など贅を尽くしたもので 本丸御殿上段間
あったが 、 再建時には全体に質素な造りになったという 。



涼風字跡

8天守閣

馬場

本文

本丸

外観四重 ( 内部3層6階 ) 高さ18 . 5m の望楼型天守で 、 創建当初の様式を 踏襲して1749年に再建された 。 大入 母屋とその上の唐破風 、 黒漆で塗られ た高欄が特徴的で 、 1階北東角には現 存するものとしては全国唯一の忍び返 しもある 。

本丸御殿

典杏並木

カルト

紅葉並木

7

ありが

下屋敷跡 ( 県庁 )

/ 4 / 11 Thowma

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思ひ返し

数寄屋櫓跡

○本丸への順路
まっすぐルート 追手門 ~ 本丸まで 約8分 。 急な階段が 続きますが 、 最も早く 、 本丸に到達すること のできるルートです 。

22 打込みギの石垣

犬走

太鼓丸

ゆったりルート 杉ノ段から梅ノ段 、 三ノ丸を経由 。 あまり 知られていない城の 風景を楽しめます 。 追手門 ~ 本丸まで 約20分 。

3

3 杉並木

井戸跡

だと

石垣展示 長宗我部時代

野球

板垣

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起助銅像

内一豊の妻像 」



HOME

ちらからいいから

「 至高知公園駐車場 」

6梅ノ段 杉ノ段から左手に進むと 、 か つての馬場が梅苑となって いる ( 梅ノ段 ) 。 ここから西へ 下ると 「 御台所屋敷跡 」 や 城下町民の氏神であり祭礼 時に限り庶民の参拝が許さ れた八幡宮跡 ( 現高知八幡 宮 ) の小祠がある 。 城内には 八幡宮のほか諏訪大明神 、 厳島明神があり 、 城内三社 といわれた 。

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排計

1 追手門 石垣の上に渡櫓を載せた櫓門で 、 城の大手 ( 正面 ) にふさわ しい堂々たる構えを持つ 。 門前は枡形になっており 、 防御時 には石垣上の狭間塀や門上から攻撃できるようになってい る 。 また 、 門の2階には 「 石落とし 」 もあり 、 敵の直上から石を 落としたり槍を突くことができるようになっている 。 門前の石 垣は城内で最も巨石が多くみられる場所であり 、 工事の際に 印された 「 ウ 」 、 「 エ 」 、 「 ケ 」 、 「 シ 」 などの刻印も確認することが できる 。

諾門

4三ノ丸 かつては三ノ丸御殿があり 、 年中行事や儀式を行ってい
た 。 長宗我部元親による築 13 鉄門跡と詰門
城時の石垣が発掘され 、 そ
の一部の遺構を見ることが 杉ノ段から右手に石段を登ると打込ハギという手法で築かれ
できるようになっている 。 17本丸へ た堅牢な石垣が目立つ鉄門跡に至る 。 当時は門扉に多数の 小鉄板が打ち付けられ 、 門内には小さな枡形が設けられた重
詰門は本丸と二ノ丸をつな
5二ノ丸 要な防衛ポイントであった 。 再建時に積み直された石垣には 、
ぐ役目を果たしており 、 藩政 石を割るための楔の跡も残っている 。
藩主の暮らす二ノ丸御殿が時代には 「 橋廊下 」 と呼ばれ 鉄門跡の階段を越えると右手前に三ノ丸 、 右手に二ノ丸 、 左 あった 。 北東には家具櫓やた 。 2階は家老 ・ 中老などの 手に本丸と天守閣が迫り 、 真正面には数段の石段越しに黒 数奇屋櫓などがあり 、 これら 詰所として用いられ 、 現在の 塗りの詰門がみえる 。 敵はここで自然に正面の詰門側へと誘 の櫓はその名前が示すよう呼称はここからきている 。 導され 、 石段を登るが最後 、 三方から矢と鉄砲の嵐に見舞わ に調度や道具類を収納して 壁には隠し銃眼が設けられ れる 。 門内は侵入した敵が容易に通り抜けられないよう 、 入口 いた 。 西端には3階建ての ている 。 本丸の入り口には と出口の扉の位置が 「 筋違い 」 に設置されており 、 1階は籠城乾櫓があり 、 さながら小天守 廊下門があり 、 ここをくぐると 用の塩を貯蔵する塩蔵になっている 。
のようであったといわれる 。 本丸に至る 。

2 追手門から杉ノ段まで 追手門をくぐり左手の石段を登り詰めると杉ノ段に至る 。 石 段は登りにくく下りやすいよう幅が工夫されている 。 現在は蓋 がされている井戸は良質の飲料水を汲めたことから 、 藩主の 居住する二ノ丸御殿まで毎日10時 、 12時 、 16時の計3回 運ばれていたという 。 藩主のお国入りや出駕の時には 、 一族 がここまで送迎に出向いていた 。

国指定重要文化財 / 現存十二城天守 / 日本百名城

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レイプ 高知城略年譜

慶長6年11601年 】 山内一豊が土佐に入国し浦戸城を居城とする 。
大高坂山に高知城築城を開始 。 慶長8年11603年 】 本丸と二ノ丸の石垣工事が完成 。 8月21日 、
山内一豊が入城する 。 大高坂山の地名を 「 河
中山 」 と改める 。 慶長15年11610年 】 河中山を 「 高智山 」 と改める 。 慶長16年11611年 】 三ノ丸が完成しほぼ全城郭が整う 。 享保12年11727年 】 城下町の大火で追手門を残し天守閣はじめ城
郭のほとんどを焼失する 。 享保14年11729年 】 深尾帯刀を普請奉行に任命し城郭再建着工 。 寛延2年11749年 ) 天守閣をはじめ櫓 ・ 城門などが完成 、 現在の天
守閣はこの時のもの 。 宝暦3年 ( 1753年 ) 再建以来25年目にしてほぼ全城郭が整う 。 弘化3年 ( 1846年 ) 天守閣の修理を行う 。 明治7年 ( 1874年 】 高知公園として一般開放 。 昭和9年11934年 ) 国宝に指定される ( 昭和25年文化財保護法
施行により重要文化財となる ) 。 昭和23年11948年 】 天守をはじめ各建物の修理を始める 。 昭和34年 ( 1959年 ) 修復工事完成 。 史跡指定 。 平成13年12001年 】 築城400年祭を開催 。 平成22年 ( 2010年 】 三ノ丸石垣修復工事完成 。

記念スタンプ

4



開館時間 午前9時 ~ 午後5時 休館日 12月26日 ~ 1月1日

P

ROXE

780 - 0850 高知市丸の内1 - 2 - 1 TEL . 088 - 824 - 5701 http : / / kochipark . jp / kochijyo /

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