昭和30年代前半の東京港日の出桟橋あたりの様子です。
画面奥の客船は日本最初(?)のクルーズ客船の興安丸(東洋郵船、7079トン、1932年建造)もともと国鉄の関釜連絡船として建造された船で、戦争を奇跡的に生き延び、戦後は大陸からの引き上げ船として有名になりました。
東京起点のクルーズは時期尚早だったのか失敗に終わり、このあとインドネシアで巡礼船になったのち1970年に惜しまれながらも三原にて解体されています。
現在この船の錨が下関市と三原市のそれぞれ海の見える公園に保存されているとのこと、氷川丸のように連絡船当時の姿に戻して、下関港で保存しておいて貰いたかったとつくづく思ってしまいます。
手前のちいさなタグボートは第一芝浦丸(37.7トン、1926年建造)1974年、つまり昭和49年まで現役で活躍していました。
じつはこのタグは都内某所で現存しています。もちろん走りはしませんが…
この船の保存状況などに関しましてはいずれ改めてレポートします。
下関の碇の写真トラばっときました。ほろのついたタグボート、古い絵葉書で見みたような気がします。
駒さん、TBありがとうございます。タグボートの絵葉書は気になりますね。この船と同じなのかな?
ごめんなさい、私もタグボートが気になりました。三角屋根?みたいなほろ、いいですね。現存してるならぜひお目にかかりたい!
アントンさん、とんでもない!この絵はタグボートをメインのつもりで描いたもので、興安丸はあくまで背景です。(メインに描くなら関釜連絡船か引き揚げ船のときの絵を描きます)近いうちにこのブログで写真と場所を公開しますので見に行かれるといいですよ。
私も興味深々です。よろしくお願いします。ぜひ見てみたいです。
地図屋さん、第一芝浦丸の現在の写真をさっそくアップしました。ご覧ください。
力強く波を掻き分け進んでいくタグの姿が良いですね^^傑作にポチッ♪とな
黄龍さん、傑作ボタンありがとうございましたっ!
興安丸が国鉄から日本郵船に変わった時下関港のブイに繋がれていたのを思い出します、煙突のマークは〒で当時下関桟橋には、晶景丸徳寿丸宗谷丸が動かぬ船で係船されていました。
fxkfw985さん、はじめまして。興安丸はそのままずっと下関に置いて保存して欲しかったですね。
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